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祝福二世として生まれて良かったこと

み言と生活

あなたは、祝福二世として生まれたことをどう思っているでしょうか。幸せだと思いますか、不幸だと思いますか、それとも「何の関係もない」と思うでしょうか。
では、そう思う根拠は何でしょうか。

与えられた環境は人それぞれですが、幸か不幸か決めるのは「誰か」ではなく「自分自身」です。
私が祝福二世として生まれたことは、誰が何と言おうと「幸せ」だし「良かった」と思っています。その根拠をこの記事ではいくつか挙げてみようと思います。

この記事を通して、祝福二世として生まれたことが幸か不幸かを考えるヒントになればいいと思います。

ちなみに、悩みもあるので別に記事にしようと思います。

良かったこと①人生の目的を知っている

私は、物心つく頃には「統一原理」を学ぶようになっていました。むしろ、母親の胎内にいた頃から原理を聞いていたので「胎教」から受けていたと言えるかもしれません。

原理は世の中の真理について書かれています。歴史上誰一人として、納得する答えを出せなかった人類の難問についての回答が書かれています。

私はどんな時も「目的」を重要視して生きています。そして、すべての前提にあるのが「生きる目的」です。私からすれば、生きる目的が分からなければ、生きる意味がありません。
学生時代に必死に勉強する意味、社会に出て働く意味。趣味、結婚、家庭、全て「何のために生きるのか」という問いにいつも帰ってきます。
原理はその根底にある問いに答えているものです。

ただし、そのことを「知っている」ことと、それを「理解する」「納得する」「信じる」というのは別の話です。ただ盲目的に受け入れても意味がありません(妄信)。それでは「私自身」も「世界」も完成させることはできません。

それでも真理を「知っている」ことの意義はとてつもなく大きいです。
ですから、私は真理を知ることができて「良かった」と思っています。

良かったこと②120%信頼できる伴侶と出会えた

原理を深く理解する前から、私の人生最大の目的は「家庭」にありました。
いつも思うのは、私がたとえ原理を知らなかったとしても、「最高の子どもを育て上げること」は私の最大の目標だったということです。
そんな私が、父母マッチングを通して出会い、祝福を受けた妻と生活していて日々感じるのは、彼女が120%信頼できる人であることです。

父母マッチング
初めはメシヤ=文鮮明師によって相手が選ばれたが、今はその役目を本人の親(1世)が代理して探す

誰もが願う、真実の愛の属性を答えられるでしょうか?
それは「絶対」「唯一」「不変」「永遠」の4つです。

  • 絶対 相対的なものではない。美人だから、頭がいいから、お金を持っているから、のような他者と比較して愛するものではない
  • 唯一 80億人分の一人ではなく、目の前の人ただ一人
  • 不変 歳をとっても、病気にかかったとしても、決して変わることがない
  • 永遠 どれだけの時が流れても愛し続ける

そのことを知っていることも良かったこと(①と同じ)です。
そもそも、知らないものを求められるでしょうか。夫と妻、お互いが真実の愛が何かを知ることで、共に求めていくことができます。

この世の「自分が幸せになりたい」「好きだから一緒にいたい」という価値観ではなく、「神様が最初から準備していた相手」という文字通りの「運命の人」であるという価値観が根底にあります。

「好きだから愛する」のではなく「愛する人を好きになる」という順序で成り立っているのです。つまり「好き」になったから結婚するのではなく、結婚してから「好き」になっていくのが祝福結婚というものです。
だから、妻は私に出会うために、私に愛されるために生まれたのであり、私は妻に出会うために、妻に愛されるために生まれてきたのです。これほどロマンチックな関係が他にあるでしょうか。
私は妻だけを愛するという覚悟、愛せるという喜び、妻は私だけを見つめて、永遠に共に居てくれるという信頼関係が成り立っているのです。

神様が祝福した夫婦が幸せになれないはずがありません。どんな苦労や試練があったとしても、お互いのために生き、それを乗り越えていけるという確信があるのです。
4つの属性を持つ真実の愛を、共に求めていける夫婦になれることこそが祝福結婚の代えられない価値ということです。

良かったこと③二世として苦労できること

私には、摂理の中心人物であるという意識があります。イエス様や真の父母様のような世界的な使命はなくとも、私に与えられた責任があると知っています。

神様のため、先祖から子孫に至る全人類のために生きられるという喜びの中、私は生きています。たとえわずかな力であっても、全歴史に責任を持ち、自分の人生をかけられるものがあると確信して日々を過ごしているのです。
それは「不幸」でしょうか、「幸福」でしょうか。

苦労に意味があること、それを超えた先に成長と恵みがあることを知って人生を送れることは、決して不幸なことだとは思いません。
試練の時は苦しいものです。限界を感じる瞬間は逃げたくなります。しかし、そこに神様からのメッセージがあることを知っていれば、全て乗り越えられるのです。

私たちが与えられる環境は、父母なる神様が準備されたものです。親が子の成長と幸福を願い、時に辛い道を歩かせるのは愛ゆえです。そして親を超えて偉大になってほしいと願うのが父母の自然な心情です。
二世として苦労するのは、成長を願い、幸福を願い、偉大になってほしいと願う、親なる神様の愛そのものなのです。

「祝福二世」は幸せか? 決めるのは自分自身

家庭連合の二世として生まれたという「事実」は変わりません。それをどう捉えるかは自分次第です。私は様々な経験をして考え続けてきた結果「良かった」と思っています。

その根拠は
①人生の目的を知った
②最高のパートナーと出会えた
③二世として苦労できる
などです。

ただ、同じことでも捉え方によっては「不幸」と思うかもしれません。生き方を強制され、苦労を強いられると感じるかもしれません。結局は、真実と思うか、だまされていると思うか、受け入れるか、拒絶するかの、私の問題なのです。

与えられた環境、祝福二世として生まれたことを、両親や教会のせいにしても仕方がありません。不平不満を言っても、それはただの責任転嫁です。

私は教えられたみ言に納得して、人生に意味を見出し、幸福に生きています。
その内容に納得できないのなら、両親にでも、牧会者にでも、その根拠を挙げて徹底的に食ってかかればいいと思います。

受け入れるにしても、拒絶するにしても、トコトン考え抜かなければみ旨の道、信仰の道を最後まで歩み切るのは難しいと思います。ぜひ、自分の置かれた立場について、深く考える時間を持ってみましょう。
何か思うことがあれば、コメントを寄せてもらえたらと思います。

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