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聖書を読んで テモテ第二 第4章

愛の一滴

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

テモテへの手紙 第二 4章2節-4節『聖書 新改訳 2017』(新)P.429 いのちのことば社

信仰が高まり、神様の願いを叶えたいと思うようになると「伝道」という二文字が思い浮かびます。

ただ現実の環境を見ると、とてもみ言を伝えられないと尻込みしてしまわないでしょうか。今はまだ「時」ではないかと、思い込もうとしていなでしょうか。

そんな時にこの聖句は勇気をくれます。

私たちの信仰、伝道への姿勢は常に変わりません。
それは「何があっても愛し続けること」

この聖句のポイントを拾いながら、その「姿勢」を考えていきたいと思います。

健全な教えに耐えられなくなり、作り話にそれて行く

正しい指摘は、耳が痛いもの。良薬口に苦しということわざもありますが、真理というものは時に逃げ出したいほどに強く、恐ろしいものです。

正しい事が分かっていながらも、それを受け入れがたいというのは誰にでもあり得ると思います。そうしてその「正しい事」を拒絶するために、都合のいい事を必死に探して「正しそうな事」を信じようとする人がいます。

真理からそれていく人々

世の中では「権利」という言葉を耳にする事が多くなりました。女性の権利、子どもの権利、マイノリティの権利などなど…

権利の保護を主張する人々は、それが絶対的に正しいという前提に立って声高に叫びます。社会的弱者、少数派の権利をいかに守るべきか、今どれだけ侵害されているかを強調します。

では、権利を保護することは絶対的に正しい事でしょうか。彼らの主張通りの社会にすることは健全でしょうか。

権利の保護は大事ですが、それには必ず「責任」が伴います。自分たちの権利を主張する人々は、果たしてその権利と共にある責任について認識しているのでしょうか。

民主主義の基本は多数決です。多数決によって、できるだけ多くの人が納得のいく社会を目指しています。

だから、少数派の主張も許されるし、多数決の結果はもちろんですが、その結論に至るまでの議論の過程を重要視します。

少数派の権利を一方的に認めれば、多数派の権利が侵される事につながる事があります。それが民主主義の、国家における国民の責任です。

権利保護の正しさばかりを主張する人々、それに追随する人々は、そうした民主主義社会の基本的な要素、議論と結論に伴う「責任」についてから目を逸らしています。

主張を通した後の「自らにとって都合のいい社会」という空想だけを見ているのです。

「無視」と「攻撃」

真理からそれていく人は、真理を主張する人を無視し、あるいは攻撃するようになります。

インターネット上では「報道しない自由」という言葉が度々登場します。これは憲法二十一条(表現の自由)に含まれる「報道の自由」をかけた言葉ですが、昨今の国際情勢を見るとあまり笑えない皮肉です。

テレビ局をはじめ報道機関は「報道の自由」を認められ、日々様々な取材を行い情報発信をしています。最近放送法の解釈をめぐる文書が話題になっていましたが、深く関与した話です。

家庭連合(旧統一協会)の件に対しても、都合の悪いことについては無視(報道しない)した上で、問題にできそうなことは過剰なまでに批判しています。

家庭連合(FFWPU)と、国際勝共連合(IFVOC)や天宙平和連合(UPF)などが「関連団体」という主張を無視し、あえて一緒くたにしながらも、その中身については一切報道しません。

勝共連合がKCIAによって組織されたというデマの検証も、UPFが国連経済社会理事会(ECOSOC)の総合協議資格を有する国際NGO団体として認められていることも報じません。

一方で、霊感商法や高額寄付といった悪意に満ちた表現を使いながら強烈に批判しています。そして批判の情報源は家庭連合に反対する団体(全国霊感商法弁護士連絡会=全国弁連)の弁護士ですが、彼らの過去や身元を調べる様子もありません。

真理に耐えられなくなった人々は、都合の良い「正しさ」に逃げ込み、真理に対して無視や攻撃をするようになるのです。

み言を伝えるのに、「時」は問題にならない

聖句には「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」とあります。

神様が人類を導いてきた歴史で「時が良かった」期間はどれだけあったでしょうか。人類歴史を振り返る時、世界のどこでも戦争が起きていなかったのは、たった200年だとする説もあります。
人類はいつも争いの中でもがき苦しんできました。それでも神様は常に、預言者や義人・聖人を送り、み言を通して愛そうとされてきました。

なぜそんな事ができるのかといえば、神様が真の愛の本体だからです。真の愛は「不変」であり「永遠」です。愛する事に喜びを感じ、愛せない事が苦しいのが真の愛です。

真の愛はすべてを超越します。希望の中で共に喜びたいのが真の愛であり、絶望の渦中にあっても共に苦しみを背負おうとするのが真の愛です。

そんな真の愛の本体である神様のメッセージがみ言なのです。ですから、み言を伝えるのに、「時」は問題にならないのです。

私たちの姿勢 「愛し続ける」

では、真理から目を背けながら攻撃してくる人々に対して、私たちはどんな姿勢を持つべきでしょうか。聖書が教えてくれる通り「忍耐の限りを尽くす」べきでしょう。

最も迫害を受けたイエス様や真の御父母様、そして神様がどんな姿勢だったかを思い出す事です。

神様も真の御父母様もイエス様も、決して恨むことはありませんでした。むしろ、ご自分やご自分を信じる人を後回しにしても、迫害するものたちのために祈り、愛そうとされました。

私たちの姿勢はいついかなる時も、どんな環境にあっても変わりません。ただの前の人を愛することです。

イエス様や真の御父母様、そして神様がそうであるように、ただ愛し、愛し、愛し続けましょう。

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