祝福二世として生まれたことで悩むことはないでしょうか。私も悩むことがありますが、そのほとんどは「み言と信仰態度との乖離」、いわゆる「人につまずく」というものです。
- 牧会者がみ言を語っても実体が伴っていない
- 教会に来ている食口の信仰レベルが低い
- 両親の信仰態度が原理と一致していない
そんな「理想」と「現実」とのギャップを感じる瞬間と、私の対処法について書いてみました。
悩み① 守られない 「時間主管」
時間主管が守られない瞬間
教会ではよく「自己主管」「時間主管」と言われます。お父様の「天宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というみ言も何度となく聞かされましたし、原理に書かれている通り三大祝福の第一は「個性完成」です。
では「時間主管」はどれくらい守られていると感じるでしょうか。
礼拝の開始時間に、いつもギリギリに来る人がいないでしょうか。礼拝前の準備聖歌の時間でも周りと雑談している人がいないでしょうか。
1週間の出発である礼拝の時間を厳粛に持っていくときに、そのような姿勢はみ言にかなっているでしょうか。
牧会者でも、説教があまりにも長時間にわたる人がいます。参加している食口の中には午後に予定がある人もいるはずです。
ごく個人的な予定もあれば、伝道活動などのみ旨の時間を予定している人もいるでしょうが、その予定の内容や有無に関わらず、決められた時間内で重要なポイントを押さえて語るのが説教者の責任ではないかと思います。
また、会議をするのに目標や議題の共有もせず、ダラダラと時間だけが過ぎていくことを何度も経験しました。そんな会議で何も決まらないのは当然のことです。
世の中で「時間主管」という言葉は出てきません。約束の時間を守ることは社会人としての「常識」ですし、「5分前行動」は小学生でも教わっていることです。
対処法 「私だけは」時間を守る
大事なことは、「私がみ言を守る」ことです。み言は自分を律するものであって、他人に当てはめるものではありません。だから、守らない人たちに流されずに、自分だけは時間主管を徹底しましょう。
礼拝の時間を守れていない食口を見ても、私が守っていればいいんです。雑談をしている食口がいたら、「私はああはならない」「私の子どもはああいう大人にはさせない」と心に誓うんです。
説教者の話が長いならば、説教者とよく目が合う場所に座り、一所懸命に話を聞きます。そして時間が来たら腕時計を指して「長いです」と目で訴えたらどうでしょうか。
また会議があるとき、私は先に「今日の議題は何で、いつまでに終わりますか」と聞くようにしています。本来先に共有されるべきものですが、聞かないと教えてくれないのなら聞くしかありません。
そして、その時間になったら何が何でも帰ります。
み言は「誰か」が守るものではなく、「私が」守るものです。他人にみ言の刃を突きつければ、自分に跳ね返ってきます。
イエス様も「人を裁くな。自分が裁かれないためである」とおっしゃっているではないですか。
その代わり、私がみ言を守るとき、他人にとやかく言われる筋合いはありません。時間主管は「私が」するものです。
悩み② 計画性のなさを「天の導き」のせいにする
統一教会は「突然教会」
教会は突然教会と言われることがあります。大規模な集会や行事でも急に告知され、動員を呼びかけられたりします。
急遽「マッチング(祝福)をする」と言って韓国に集められることもありました。
教会内では「事前に周知して時間をかけて用意すると、サタンに妨害される」と考えることがあります。その考え方には一理あると思います。
例えば安倍元首相の国葬儀が行われた時、反対意見が多く現れ、支持しない人が増えていったのは、事前発表から開催日までの期間が長かった事が要因の一つだと思います。
計画の発表から実施までが長いほど、その間に様々な意見が出てくるし、それによって派閥が形成されるのは自然なことです。だから「突然教会」である事は許容される面もあると思います。
しかし、どんなことでも「突然」でいいと考えるのは間違っています。
教会では親睦会や勉強会が不定期に開催されることがあります。ただ不定期にしても、1週間や2週間前に開催が決まることを何度も経験してきました。
少人数の集まりならともかく、それなりの人数を集めてイベントを行う時でも、ロクに準備期間を用意せず見切り発車で進めていることが多かったです。事前に会議をすることもありますが、その会議が必要であることを考慮していないと思われます。
その結果どうなるかといえば、参加者への連絡不行き届き、スタッフの情報共有不足で行き当たりばったりのグダグダな行事となってしまいます。
計画性のない人たち
なぜそんなことになるのか。私は「計画性がない」からだと思っています。
私は中高生、大学生時代に何度も「教会の年間スケジュールをください」と頼みましたが、出てきた事がありません。当時、地区ごとにスポーツ大会や文化祭が毎年行われていましたが、その候補日すら教えてくれませんでした。
スポーツ大会にしても文化祭にしても「何をするか」「いつ練習するか」など決めることはたくさんあります。しかし1、2ヶ月前という直前に開催が伝えられ、会議等の準備に取り掛かり、実際の練習時間はほとんど確保できません。
私が頭にくるのは、彼らが最後には言うのは「時間がない中で精一杯準備しました」というセリフです。「この(時間のなかった)環境は、天が用意してくださった環境だ」と表現するわけです。
「時間がない」のではなく「時間をつくる努力をしていない」と私は見ていました。私に言わせれば「計画性がないこと」を「神様のせい」にしているわけです。
時間を守る、計画を立てるというのは社会では「当たり前」です。それを「み言」として教えることは良い事ですが、それを実践できていなければ笑い草です。
対処法 突然のことには対応しない
私には私の計画や予定がある。それを考慮せずにいついつに来いというのは、教会でなくても非常識です。
だから私は、突然頼まれても「聞いていないので」と断ることが多いです。
私の場合、友人と会う約束ですら、最低でも1週間以上の余裕を持って誘われなければ断ることが多いです。極端かもしれませんが、そうすることで相手も事前に連絡をしてくれるようになりました。
時間を守ったり計画性を持って生活することは、人としての関係性が希薄になるのではなく、むしろ円滑になっていくものだと思います。
み旨の世界では、本当に突然の事が起きたり、一刻を争う啓示があったりもします。しかしその時はその声に聴き従えばいい話です。そんな時は本心から「行かなければ」という思いになるはずです。
特に、日頃からみ言を守る生活を心がけていれば従うべき声がわかるようになるものです。
やはり、み言を「私が」守ることが大切ということです。
悩み③ 一つになれない両親(祝福1世)
一番近くの信仰者である親
私たちの両親は、み言やメシヤに出会い、自ら信仰を持つようになった一世です。自ら進んで受けた、メシヤから直接受けたマッチングであり、祝福です。
ところが現実は「幸せそうに見えない」。
夫婦がお互いに葛藤し、不満を抱えている姿を見せられます。「真の愛で一つになろう」という信仰姿勢が見えない。
離婚していないのが、ある意味2人を結んだメシヤが「本物」だと証明しているとも言えます。
それほど、普通の恋愛結婚では絶対にうまくいかない2人が数十年連れ添って生活しているわけです。
自分からみ言に感動して信仰を持ったはずであり、それを自分達の息子娘(二世)に教育しておきながら、そのみ言通りに生活できていない。これほど矛盾した存在が一番近くにいるのです。
原理やみ言が「真理」だと思うのなら、そのように生きる姿を通して、二世である私達に教育してほしいと心底思います。
何より「祝福結婚をして幸せ」という姿でなければ、どうして「同じ信仰を持ちたい」「祝福結婚を受けたい」と思うのでしょうか。
対処法 私は両親の子である前に「神様の子」である
両親は1世であり、許されて祝福を受けています。2世の祝福式には無い、蕩減棒、聖酒式、3日行事など、いくつもの条件を立ててようやく許されて結ばれています。
信仰歴や祝福を受けた年によっては、人生の半分以上をこの世の中の価値観、堕落世界の価値観で育ってきています。
だから、親が一つになれない、み言の通りに生きられないのは仕方のない事です。完成した人間、夫婦、父母は今のところ、真の父母様しかいません。
そんな両親が、原罪が無く生まれた私たちを教育することの難易度は、よくよく考えてみれば並大抵のことではありません。同情すらしてしまいます。
堕落世界の因習を脱いで人格完成することも難しいのに、そんな者同士が結婚して一つになるというのは、それだけで相当な苦労の道だと思います。
私が両親の「信仰が足りない」と思うように、両親は夫婦お互いに「同じみ言を聞いているのにどうしてこんなに価値観が合わないのか」と葛藤するわけですから。
ただ、私たちはそんな不完全な両親を見て「信仰」や「祝福結婚」の価値を測るべきではないと思います。私たちがモデルにすべきは完成した父母、夫婦の姿、つまり真の父母様です。
真の父母様を見て、知ることで「信仰とは」「祝福とは」を自分なりに考えて、自らの意思で決断することが必要だということです。
やはりみ言や信仰というのは両親や他の食口を見るものではなく、私自身に向けて問うものです。
まとめ 他人を見て悩んでも仕方ない
祝福二世として悩むのは、真理であるみ言と、それと乖離した人々とのギャップに対するものです。
- 守られない 「時間主管」
- 計画性のなさを「神様」のせいにする
- 一番身近な両親が一つになれない
一番み言に忠実であるべき教会の牧会者やスタッフが、口先だけで守れていなかったり、良いことを言っていても、社会で「当たり前」とされることができない。み言に感動して自ら信仰を持った両親が、一つになれていない…
祝福二世を教育する責任のある大人(一世)たちが、そのモデルとなっていないことに悩みます。
ですが、彼らは本質的には私の信仰に関係がありません。信仰はあくまで「私と神様」の一対一の問題であり、み言があるのは人を裁くためではなく、自分自身を律し、成長して完成するためです。
み言を守れず、信仰がおぼつかない人なんかは放っておいて、まずは自らが完成に向けて歩んでいきましょう。そうすると、信仰が未熟な人たちが自然とかわいく思えるようになり、広い心で導いてあげたいという気持ちになるかもしれません。
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