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聖書を読んで 詩篇37篇

愛の一滴

悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者にねたみを起こすな
彼らは草のようにたちまちしおれ 青草のように枯れるのだから。

もうしばらくで 悪しき者はいなくなる。その居所を調べても そこにはいない。
しかし 柔和な人は血を受け継ぎ 豊かな繁栄を自らの喜びとする

詩篇37篇1-2節、10-11節『聖書 新改訳 2017』(旧)P.968-969 いのちのことば社

感じた「慰め」と「勇気」

この聖句を読んだ時、最初に感じたのは慰め勇気でした。
私たちは、小さなズルから大きな不正まで、それを目撃したり、あるいは自分に対してされた時に、正義感からその人を憎む気持ちが湧いてくることがあります。
今、教会に対して批判的な報道が繰り返されていますが、その声の主がどんな人か確かめようとする人はほとんどいません。

私たちが気にするべきは、自分が今悪や不正を行っていないか、神様が願う行動をできているかです。悪事を働く人を見ても、彼らはいつか滅んでいくのだということをこの聖句は教えてくれています。

そしてこの聖句は、今の偏った報道や批判を繰り返す人々に対して私がどんな態度をとるべきなのかを考えるきっかけにもなりました。

問われているのは信仰:第一対象は神様

千葉修練所で行われている21修に参加した時に何度も言われたことは「第一対象は神様」という言葉です。原理でよく言われる「三対象目的の完成」ですが、第一番目は「神様」です。
自分の心と体を考える前に、夫(妻)を愛する前に、五感で感じるすべてのものの前に、神様を感じ、その心情をたずねていくのが私たちが歩む人生の基本です。

神様の願う道を歩むこと、自分自身に与えられた責任分担を果たすときには保護されます。神様に主管される人生を歩む時には、必ず神様が導いてくださいます。

原理では「主管」という言葉がよく使われますが、どうしても「管理」というイメージで捉えてしまわないでしょうか。いつも神様を考え、神様の願いに沿って生きることは、神様に「支配」されているように感じてしまうかもしれません。
しかし本当に神様に「主管」されて生きることができれば、それ以上に幸福な人生はありません。

例えば、運転の上手なお父さんの車に乗って旅行に行くとき、途中で事故に遭うのではないかとおびえるでしょうか。料理の得意なお母さんが大好物を作ってくれているとき、失敗作が出てくることを心配するでしょうか。

きっとあなたは安心してシートに体を預け、また運ばれてくる料理の味を想像してお腹を空かせることと思います。

親も人間なので失敗することがあるでしょうが、神様は全知全能の方です。この世界を創造された第一原因です。神様が用意される道も、用意される食材も全てあなたを幸福にするために全力で投入されたものです。
問題なのは私が責任分担を果たすかどうかであって、神様を信頼し、全てを委ねて生きる人生は幸福にならざるを得ないのです。

信仰の一番根底にあるのは「神様の存在」

人それぞれ信仰の態度は違いますし、その表れ方も違います。
教会に足しげく通ってみ言を聞く人もいれば、毎日何時間も祈祷する人もいるでしょう。サンデークリスチャンという言葉もあるくらいですから、はた目から見てそんなに熱心ではない人もいるかもしれません。
ただ、全ての信仰の根底にあるのは「神様の存在」です。まだ神様が本当にいるのかどうか確信できない人も少なくないと思いますが、「神様の存在」を前提としなければ信仰生活は成り立ちません。
まだ実感していないという人も、それは気付いていないだけで、ちゃんと良心が本心を通して神様を察知しています。

迫害の中でとるべき態度:迫害する者のために祈りなさい

さて、神様の事情・心情・願いを考えた時に、迫害の中にいる私たちはどんな姿勢で歩むべきなのでしょうか。イエス様ははっきりと答えています。

聖書

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい
 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。

マタイの福音書 5章44-45節『聖書 新改訳 2017』(新)P.9 いのちのことば社

ほとんど報道されることはありませんが、統一教会信者が「拉致・監禁」された過去があります。それを擁護(弁護)したり、支持してきた人々は「保護・説得」だと強調します。
ただ、どちらにしてもそこには「キリスト教の牧師」がいたという事実があります。彼らはイエス様の言葉を学び実践しているはずでした。
迫害する人々や愛のみ言を学んだはずの彼らを見ながら、私たちは裁くのではなく、それ以上の実践力を持ってみ言を守っていくべきだと思います。

家族や周りの食口以上に、迫害する人々を愛する姿を願うのが神様です。批判してくる人にも家族がいます。彼らはまだ、神様の愛を知らないだけなのです。神様を知らない人々からの攻撃は、神様からの真の愛でしか克服できません

「悪しき者はいなくなる」

私たちは、「悪しき者」が滅んだ時、本然の「善なる者」となった彼らを迎えられる愛の器を広げていきたいものです。

成約時代を越え、天一国の国民としての資格を備えようとする私たちは、再臨のメシヤとして来られたお父様の心情と行動が目指すべき姿であると思います。最後に、そのお父様の詩を紹介して終わりたいと思います。

人を疑えば、苦しみを覚え
人を裁けば、耐えがたくなり

人を憎めば、もはや私に存在価値はない
しかし、信じてはだまされ
今宵、手のひらに頭を埋めて、苦痛と悲しみに震える私

間違っていたのか。そうだ、私は間違っていた
だまされても、信じなければ
裏切られても、赦さなければ

私を憎む者までも、ひたむきに愛そう

涙をふいて、微笑んで迎えるのだ
だますことしか知らない者を
裏切っても、悔悟を知らないものを

おお主よ!愛の痛みよ!
私のこの苦痛に目を留めてください
疼くこの胸に主のみ手を当ててください
底知れぬ苦悩に心臓が張り裂けそうだ

されど、
裏切った者らを愛したとき
私は勝利を勝ち取った

もし、あなたも私のように愛するなら
あなたに栄光の王冠を授けよう

『平和を愛する世界人として 増補版 文鮮明自叙伝』p.64-65 創芸社

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